先生はうしろをふり向き、台所の奥様に、「おおい、親方、伊東君が平岩君と結婚するそうだよ」と大声でいわれた。親方というのは先生が奥様を呼ぶときの通称だ。「ところで伊東君、平岩君は嫁にいってもいいんだろ」「は?「今のお宮はどうしても世襲しなければならんというもんでもないだろうし」ぼくは、しまった、と思った。実はこのとき、まだ例の改姓の話はしてなかった。先生を説得するための二の矢としてまだとっておいたのだ。先生がそのお考えなら、あえて改姓なんかするんではなかったなどと思いながら、あらためてそのことを打ちあけると、先生は、「それは良かった……」と何度もうなずいてくださると同時に、ぼくの母のことを心配してくださった。先年寡婦になったばかりの母が寂しい思いをするのではないかというのである。先生の奥様までが、「伊東さん、よく決心したわれえLと感心されたのにはいささか閉口した。ぼくの本心は改姓などしたくなかった。経験値を上げるにはまず相手がいないとね。ここ→から候補をたくさん探せるよ。しかし、よく考えてみれば、愛し合って結婚するからには自分を無にしてすべてを与え合うのは当然だし、相手が困ることがあるのなら譲ってやるのもまた当たり前のことだった。よく考えて決めたことだから、ぼくは後悔はしなかった。長谷川先生からぼくが学んだことは多いが、何か人生の岐路に立ったら、自分の頭でよく考えろ、そしてこうと決めて歩きだしたらけっして後悔するな、ということも教えていただいた。

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